超元寺について

お堂はどこに? 名前に隠された超元寺の「秘密」
超元寺は、「本願寺堺別院(北の御坊)」のすぐ南隣りにあるお寺です。外観がまるで堺の伝統的町屋のように見えるため
『ご本堂はどこに?』と不思議に思われる方も多いようです。その「秘密」を解くカギが、当寺の山号、「梯雲閣」に隠されています。
「閣」とは、仏舎利(お釈迦さまのお骨)や経典、仏像などを上層階に納めた建物のこと。超元寺は、本堂を二階に設けた全国的にも希少な建築様式で、堺では「二階堂」と称されてきたようです。
開基、塚本西川と蓮如上人の出会い
超元寺の開基、塚本西川(生年不詳)は大豆塚村(現在の堺市北区大豆塚町)出身の真言宗僧侶でした。
塚本西川は諸国を回るなか、越後柿崎(現在の新潟県上越市)で、本願寺第八世宗主の蓮如上人に出会い、法弟となって名を了西と改めました。
蓮如上人は、庶民には読めなかった漢文のお経などの替わりに、宗祖親鸞聖人の教えを解りやすい言葉で記したお手紙を各地のご門徒に送るなど、熱心な布教につとめた方です。しかし、さまざまな弾圧を受け各地を転々としていました。上越を訪れていた記録が残るのが1479年(文明11年)なので、了西は今から五百四十年以上前の生まれ、ということになりそうです。
浄土真宗のおつとめでは、最後に御文章(御文)を拝読します。これは、蓮如上人が各地の門信徒に宛てたお手紙を後に編纂したものです。ありがたいご縁を喜びながら、皆さまとおつとめを共にさせていただきたいものです。


了西庵の創建
堺に帰郷した了西は、王子ヶ飢(おじがうえ:現在の堺区北田出井町)に浄土真宗の道場、了西庵を建立しました。正確な年はわかっていませんが、これが超元寺の前身になります。
1570年(元亀元年)から1580年(天正8年)にかけ十年以上も続いた、本願寺勢と織田信長との戦い、石山合戦では、了西庵第三世の了閑が本願寺第十一世宗主の顕如上人に従って支援の食料や金銭を納めたこと、織田信長との間で和睦が成立し顕如上人が鷺森(現在の和歌山市)に退去した際には随従したことなどが記されています。
超元寺の成立
その了西庵は、第五世了慶の代に堺・北庄(現在地)に移転し寺号を超元寺に改めました。
なお、現在地への移転は、次のような経緯でした。まず、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際、堺(現在の堺旧市街)は焼き討ちを受けて全焼。その後、江戸幕府が堺の再整備をおこなった際に寺町が形成され、当寺も現在地に移っています。


本堂建立の謎
さて、本堂の謎についてです。
寺の記録によれば、現在の本堂は、江戸時代が終わろうとする1863年(文久三年)正月上棟と記されています。お堂の建築・装飾様式は江戸末期の特色を示しており、寺史とも合致します。
ところが、二階の本堂外陣と余間の境の襖には、それより約百年前に建築されたことを示す「宝暦辛巳之冬」(1761年)の墨書が残っているのです。
実は超元寺は、江戸時代の終わりに、一階にあったお堂を二階に持ち上げる大改修を行って現在の姿となったと伝わっていました。重機もない江戸時代にそのような改修が行えたのか、半信半疑だったのですが、その謎が令和の解体修理で解き明かされることになりました。
お堂を二階へ持ち上げた!
2022年(令和4年)、超元寺は門信徒さんたちの協力を得て、念願だった建物の修繕を行いました。実質的に解体修理に近い大工事となりましたが、その際、二階のお堂と一階では、造りも使用されている木材もまったく異なることが判明。1863年(文久三年)正月の上棟とは、1761年(宝暦11年)に建立したお堂を二階に持ち上げる大改造工事だったことが、図らずも証明されたのでした。
これで謎がとけたかに思えたのですが、新たな疑問も次々うかんできます。
まず、江戸時代は二階建て以上の建築が禁じられていましたから、なぜ超元寺に二階堂建立が許されたのか? 幕府の規制が緩和されていたのか、幕末の混乱で規制そのものが骨抜きにされていたのか、はたまた超元寺になにか特別な力があったのか?
いや、そもそも、いったいどうやって、どんな方法でお堂を二階へ持ち上げたのか?
興味が尽きることはなさそうです。
いずれにせよ超元寺は、寺地にゆとりのない都市寺院なればこその形態をもった、全国的にも希少な建築様式であることは確かなようです。
超元寺の門信徒さんはよくご存知ですが、二階のお堂へあがる階段の上には、大きな漆塗りの「籠」と「担ぎ棒」、行列の先頭を務めたであろう「先矛」などが飾られています。かつて、大きな葬儀などで、いわゆる「野辺の送り」を行う際、歴代住職が使ったものと伝わっています。また、解体修理に先立って収蔵品などの整理を行った際、珍しい品も見つかっています。いずれ、このホームページで少しずつご紹介していこうと考えています。
